「うん。完璧!」
チヒロは頭の先から足の先までチェックするようにわたしを見た。髪型も、眼鏡も鞄も靴も。服装も下着から靴下まで全部チヒロが選んだものを装着している。毎日用意されているものを着るだけだ。
今度はすぐ横に会った姿見の前で1回転して、両手にストールを手に取るとこっちを見て言った。
「どっちがいいかな?」
「青」
「オッケー」
『どっちがいい』は靴だったり、鞄だったり色々あるが、似たようなやり取りを今日もして、わたしたちは玄関へと歩き出す。
あまりチヒロは笑わない。愛想笑いは上手だけれど、わたしと過ごしている時のように無邪気に笑って欲しい。それはきっと素敵なことだ。
「行ってきまーす」
「行ってきます」
誰もいない家にそう言い残して、わたしたちは会社へと向かう。
家を出るとエレベーターで人と鉢合わせになった。双方があいさつを交わすが、いささか相手の『2人はどういうご関係ですか?』的な視線が気になる。が、いつものことだ。
親子っぽくもあるが似ていない。恋人っぽくもあるが歳が離れすぎている。とりあえず訳ありっぽいのかもしれない。
チヒロの運転する車で到着した会社で、わたしたちは仕事をする。わたしはチヒロの会社で、チヒロの秘書をしている。
思えば、ずっと変わっていない。
チヒロが産まれてから、ずっと側で見守ってきた。文字通り、見守り続ける。けれど、チヒロが大人になるにつれて少しずつこの関係は変化してきたと言える。
世界は2人だけではないのだ。
けれど、広がり続ける世界で、チヒロはそれをできるだけそれを食い止めようとする。それは、わたしの存在がいつまでもいままでと変わることなくチヒロの側にいるために必要なことでもある。わたしが居れば、友達もいらない。家族はわたしが居ればそれでいい。ここで、わたしと2人で生活する。その為に他人は必要ない。
それでも広がり続ける世界いで、わたしは自分の役目を終えるための準備をするべきなのだと考えた。
友人も新しい家族も、チヒロにはわたしより大切なものだ。
わたしは自分の役目を終えるため、計算式から残りの日数を逆算した。
あと1日と2時間48秒。
すべてはチヒロのために、わたしは生まれたのだから。
「最近体の調子はどう?」
定期的に繰り返されてきた質問に応える。
「変わりありません」
会社では敬語で話すようにしている。他の社員と同じだ。
昔、まだわたしがチヒロに敬語を使っていた頃、チヒロはそれをとても嫌がった。今もたまに悲しそうな顔をする。他の誰が同じように敬語を使っても、そんな顔はしないのに。どんな日のチヒロもすべて憶えている。そんな顔をできればさせたくないのだけれど、わたしは残念なことに完璧ではない。
いつもとかわらない1日。
業務をこなして家に帰る。チヒロと一緒にキッチンに立ち、料理を教える。もう、わたしが料理本の代わりをしなくてもチヒロは料理ができるようになった。食事を終えたらわたしが片づけをしている間にチヒロがバスルームで汗を流す。着替えを終えたらチヒロが見たいと言っていた映画を観る。観終わったら感想を言い合って、明日の朝食を何にするか決めて、明日着る服なんかの準備をして、明日の……。
わたしはチヒロに嘘を付く。それが許されていることの意味を、きちんと理解しているつもりだ。
眠りにつく前に、いつからかチヒロがわたしの首に手を回し、ぎゅっと抱きしめるようになった。この行為が、いったいどんな意味なのかわからない。
「先に死んだりしないって約束して」
耳元でそう囁かれて、わたしは平常心で答える。
「はい」
しがみ付くように首に巻きついていた腕に力が入る。
「……嘘つき」
わたしはチヒロにそう言われて何も言い返せなかった。たくさんの言葉を飲み込んだ気がするが、あやふやなまま形にならない。チヒロはわたしの嘘を見抜いていた。
「お願い、そばに居てよ。愛してなくてもいい。そばに居てくれればいいから」
それは、チヒロの為にならない。わたしの出した答えは変わらない。
わたしはただなだめるようにチヒロの頭を撫でた。いつかこんな風に、わたしじゃない誰かの前でも泣けたらいい。こんな冷たい手ではなく、温かい手で抱きしめてもらえたらいい。
ああ、けれど……。
どんな願いも、想いも、造り上げられた幻だ。ただの鉛の偽りだ。わたしはチヒロの父親が造り上げた親代わりのアンドロイドであって、ただプログラミングされた通りに動いているだけの存在にすぎない。
チヒロに会えて本当にしあわせだと思うのに、このすべての感情っぽいものが当たり前のようにすべて悲しい。
このどうにもならない心でも、あなたと一緒に歩いてきた。それがわたしにとってすべてだ。
「チヒロ」
そう呟いて、わたしは笑った。
幸せは痛いのか。
でも微笑んでみせるのは、誰が何と言おうと愛だ。