Palpation

>>01


 社に届く郵便物の仕分けをいつものようにしながら、鳴海(ナルミ)は歌でも歌い出しそうなほど上機嫌だった。本人は無自覚で、顔は至って無表情。その為、周りもそれに気付くことはない。
 鳴海の機嫌がいいのは、この仕事が特段好きだからといったわけではない。会社に届いた郵便物や社内便を各部、個人へと運ぶのが神谷の仕事だ。
 大手企業と言われるこの会社で働くようになって、想像以上の事業部の多さに驚いた。しかも部名はカタカナ混じりで覚えづらい。それを大まかに覚えるだけでも結構厄介だった。しかし、把握していなければ作業が遅れる。
 『間違いなく、迅速に。』と何度言われた事だろう。
 はじめのうちこそミスをしたり、作業が遅かったりしたものの、何事もきっちりとやりたいタイプだった鳴海は、次第に仕事にも慣れ、いつの間にか社員にも一目置かれるような存在になっていた。同期で入った他のアルバイトが辞めたりする中、気付けばいつの間にかアルバイトの中でチームリーダーにまで伸し上がっていた。
 よく言えば表情が硬い、悪く言えば無愛想。とっつきにくく、冗談を言われてもうっすらと笑う程度。そんな鳴海を苦手だと言う人も多く、事実友人も少ない。
 バイト同士で打ち解けた感はほぼないが、時間が経つにつれてこういう奴なんだと周りが気付き始め、馴染んでいった。
 このアルバイトを初めて半年以上になるが、時給のいい他のバイトの誘いを断ってまで続けている理由が鳴海の機嫌をよくしている。
 バイト初日。鳴海は仕事内容の説明を受けながら、正直辞めようと考えていた。
 知り合いに頼まれてしぶしぶ受けたのだが、『面倒くさい』の5文字が頭の中の大半を占め、『頼みごとを了承した責任』が縮こまる。
 それが5日後には『あの人にまた会いたい』がすべてを押しのけて今日の鳴海に至る。
 その人とは1階エレベーターの前で出会った。1人、エレベーターのボタンの前に立ってじっとそれを見てはいるが、ボタンは押されていなかった。

「あの……?」

 鞄の中から何かを取り出そうとしている所を不審に思いながら鳴海が声をかけると、その人は道を明け渡すように数歩ボタンから離れる。鳴海はボタンを押すことを譲られたようなかたちで、上階へと上がる為のボタンを押した。
 エレベーターが到着すると鳴海は「どうぞ」と言ってその人が先に乗り込むのを待った。その人はエレベーターに乗り込むのを一瞬躊躇ったように見えたが、軽く会釈をして深呼吸をすると、妙な緊張感を纏いながらエレベーターへと乗り込んだ。
 今思えば、鳴海はこの時から何となく違和感というか、嫌な予感のようなものを感じていた。
 階数ボタンとは逆側の奥の方にその人は乗り込んだ為、鳴海は慣れない手つきで郵便物を乗せたカートを押しながら、階数ボタン側の方へと乗り込んだ。相手とは一番距をとったかたちだ。

「何階ですか?」

「……21階を」

 その人は隅っこで小さな声でそう言った。ちらりと盗み見た顔は、俯いていてよく見えない。
 鳴海は言われた階数のボタンとを押し、誰も乗ってくる様子がない事を確認して「閉」のボタンを押した。
   エレベーターに乗り込むことを躊躇うようなその人の様子から、鳴海は何となく、その人が閉所恐怖症ではないかと考えていた。
 だからって、31階まで階段で昇るのはきついだろうなと思っていた。
 特に会話もなく、無言だった。2人は同じく最上階へと向かうエレベーターに乗っている。しかし、通常通りに動いていたと思われたそのエレベーターは、18階を過ぎたあたりで、ガタンッという異音がして大きく揺れると突然停止した。

「……え?」
「あ……」

 一瞬照明が消えて、また点いた。エレベーターが停止したのは、停電が原因というわけではないようだ。
 鳴海が心配になってその人の方に視線を向けると、絵に描いた様な顔面蒼白で震えていた。
 いろんな意味でヤバそうだ……。
 表情はいつもと大して変化がないが、これでも鳴海は動揺していた。昨日までは社員の人が補佐に付いてくれていたが、よりによって今日から1人で仕事をこなすことになっていた。
 スーツを着ている姿から、その人も同じここの社員であろうことは察しが付くが、頼りになりそうにはないと思っていた。
 鳴海はその人に取敢えず声をかけてみることにした。

「大丈夫ですよ」

 自分にも言い聞かせるようにそう言って、とにかく外部と連絡が取れる緊急用のボタンを押す。

「どうされましたか?」

 助かったことに、応答は直ぐにあった。多少ほっとしながら、鳴海は答えた。

「急に止まってしまったんですが」

「確認しますのでお待ちください」

 沈黙の中、その人は急に口を押えてその場にやがてしゃがみこんだ。吐きそうなのを我慢しているようだった。

「気分が悪いんですよね。吐けるなら、吐いた方が楽になるかもしれませんよ。俺のことは気にしなくて大丈夫なので」

 鳴海の言葉に、耐えるようにギュッと片手で拳をつくりながらその人は首を横に振る。
 震えるその背中を擦ろうと姿勢を低くすると、それを察して距離を取るように目の前に片手が上げられた。その手には真っ白な手袋が装着されている。気にも留めていなかったが、その人は両手に同じ白い手袋をしていた。
 鳴海はそんな拒絶とも取れるその人の態度に腰が引けてしまう。
 何もするなと言うことか? 放っておけばいいんだろうか……。

「お待たせしました。乗車人数は何名になりますか?」

 その時エレベーター管理会社との通信が再開された。鳴海は中腰から立ち上がり応答する。

「2名です」

「2名様ですね。怪我などはされていませんか?」

「怪我はありませんが、体調の悪い人がいます」

「わかりました。故障が確認されましたので直ちにそちらへ修理及び救助を向かわせます。安全装置が正確に作動しておりますので、落ちたりすることはありません。無理に扉を開けようとしたり機体を揺らしたりしないよう、そのまま20分程お待ちください。ご迷惑おかけして申し訳ございません。何かご不明な点はございますでしょうか?」

「……いいえ。解りました」

 20分。そう聞かされて、この状況に20分耐えなければならないことに鳴海はため息をついてしまった。

「すみません」

 斜め後ろからそう呟くように言ったその人へと視線が戻される。
 鳴海はこの状況と不審な行動が先行してきちんと相手を見ていなかったが、その人を改めてみて綺麗な人だなと思った。線の細い体を震わせた姿は、儚げで繊細そうに見える。
 息が上がった様に呼吸を繰り返している。辛そうだが、鳴海はどんな対応をしたらいいのかわからなかった。しかも、相手には何もして欲しくないと言わんばかりの反応をされたばかりだ。だからといって、このまま放っておいていいような状態にないことも見て取れる。

「閉所恐怖症ですか?」

 鳴海は思い切ってその人に聞いた。また首が横に振られる。閉所恐怖症というわけではないらしい。
 違うのか。だったらなんなんだ……。
 鳴海はたった数分前、会った時からのその人の行動を思い起こす。
 この人自分の持ち物以外、何にも触ってない。…触れない?
 鳴海は手袋のことから、前に姉のレポートの手伝いをしていた時の内容を思い出した。

「潔癖症?」

 そう鳴海が口に出すと、ハッとした表情でその人は鳴海の方を見た。
 そういうことか。
 この世にあるものは全て汚い。ドアノブ、電話、手すり、共用のイス、誰かが作った料理、誰かが使った食器、誰かが触ったエレベーターのボタン。他人が居る空気。
 そんな風に考える人にとって、この状況は地獄だ。床に倒れ込むことも、もたれ掛ることもできない。
 このままだとこの人はどうなってしまうのか。これ以上悪化した場合を想像し、恐ろしくなる。
 鳴海は少し考えてから、このまま倒れ込むよりは少しはマシかもしれない提案を口にした。

「その腕に持っているコートを敷いて床に倒れるのと、コートに包まれて俺に寄り掛かるのはどっちがマシですか?」

 返答があるまで間があった。どっちも嫌なのは重々承知だ。

「……君がいい…」

 その人は俯いたまま小さな声で答えた。鳴海はそれを聞き逃さず、その人に触れないようにゆっくりとコートへ手を伸ばした。

「コート、取りますね」

 腕からトレンチコートを引き抜くように受け取ると、頭から被せるようにしてその人へと掛けると抱きかかえるようにして引き寄せた。こんなこと、誰にもしたことがない。

 初対面の名前も知らない人に、よくこんなことをしたなと後から考えると思う。
 その時、自分に(しようがなくだが)身を委ねたその人に、言い表しがたい感情があった。単純に守ってあげたいというようなものとも違う。逆にこの人のすべてを自分が支配しているような感覚。自分の中の何かを否定するように、答えは見つからなかった。
 その後、鳴海とその人は無事に救助されたが、その人の潔癖症は、以前より悪化したようだった。
 鳴海はその人にお礼を言われ、お茶菓子を貰った。お互いの名前などを知って、名刺も貰った。が、ただそれだけだ。
 バイトの日にはよく顔を合わせる。挨拶をする程度の仲だ。そもそも鳴海はその人とどうこうなりたいと思っていなかった。いつの間にかその人が鳴海の中でお気に入りになっていたというだけだ。


 郵便物を乗せたカートを押しながら廊下を歩いていると、向かいから2人の人物が歩いてくるのが見えた。
 1人はこの会社の社長。もう1人はその秘書の1人だ。手帳を手にした秘書が、それを読み上げながら、社長の斜め後ろを歩いてくる。

「今日これからの予定ですが、13時から北村商事との会食会があります。15時から本社に戻って会議。それから本日午前中に届いた書類に……」

「あっ、ちょっと待ってくれ。やぁ、今日もご苦労様」

 鳴海に気付いた社長が声をかけてくる。社長と言っても鳴海の叔父だ。人事に叔父の息子が務めている関係で、今回のアルバイトの話が回ってきた。

「こんにちは」

 そう言って、視線は自然と秘書の岬(ミサキ)にスライドする。

「こんにちは」

 無愛想とも言える仏頂面な鳴海のあいさつに、岬はどこか控えめないつもの笑顔を向ける。

「お? 何だよ、今うっすら笑わなかったか? 珍しいな。じゃあ、後もよろしく」

 笑った? 俺が?
 鳴海は叔父の言葉に驚いて、思わず視線を逸らした。そのまま2人は歩き出し、鳴海から遠ざかって行ったが、急激に恥ずかしさが沸き起こる。
 いつも表情が乏しいと言われているのに、いったい自分はどんな顔をしていたんだろう?

 鳴海がこのアルバイトを辞めなかった理由。それは、岬にまた会いたいと思ったからだ。



>>02

 潔癖症は、強迫性障害の一種であり、汚れなどを過剰に気にする。程度は様々であり身の回りに汚れている部分があると気になるというようなものから、他者が触れたものを触れることを嫌うというものまで幅広い。
 細菌や病原菌など何らかの汚染を受けるのではないかと、日々恐れを抱き続ける。
 それ故に不安で外出することができない。
 何度も手や体を洗わないと気がすまなかったり、ドアノブや電車の吊り革を掴めない。外出先のトイレの便座に座る事ができないといった症状も見られる。
 第三者が作った料理を食べることができない。
 また、自身に汚れが付くことを極度に恐れる為に部屋を掃除できない場合や、風呂場の汚れやを気にして入浴できないなど、逆に不衛生な生活になる場合もある。
 また、周囲にも常に清潔でいることを強要する傾向にある。
 これらの症状によって、対人関係にまで深刻な悪影響をおよぼすこともある。

 鳴海は岬と知り合った後、スマートフォンを使って潔癖症で検索をかけた。自分の適当な記憶を整理する為、というよりは岬への関心からだ。
 あのエレベーター事件の時は特に体調が良くなかったらしい。後日お礼を言われた時に、いつもは誰かと一緒にエレベーターに乗ることは無理だが、手袋越しにボタンを押すことはできると岬が言っていた。

「これでも仕事の為に我慢すれば、できることの範囲は結構広いんです。あんな自分を見られているから、こんなこと言ってもあまり説得力ないかもしれないですけど」

 自虐的に話す岬に、鳴海は「そうですか」とそっけない言葉を返しただけだった。あれこれ聞くのも失礼かもしれないと思ってそう口にしたはいいが、会話はそこですぐに途切た。
 あの時のエレベーターでの出来事は、たまに夢に見ることがある。鳴海自身がが思っているより、印象に残る出来事だったのかもしれない。夢の内容は現実とは少しずつ違う。見る度に違っていることもある。
 ある時は岬とはすでに知り合いだったり、ある時は岬が潔癖症じゃなかったり、「助けて、鳴海君」と言われたり様々だ。
 妙にリアルで、どれが現実に起きた事なのかたまにわからなくなっている自分が、心配になるぐらいだ。
 エレベーターで鳴海と岬が一緒になる事は今までも何度かあった。はじめは鳴海が遠慮をし、岬が1人で先にエレベーターを使用することが多かった。3台あるエレベーターのうち、それぞれが違うエレベーターに乗ったりすることもあった。
 そんなことが何度かあった後、今まで通り「お先にどうぞ」と言った鳴海に岬が意外な行動に出る。

「一緒に乗りませんか?」

 鳴海は面食らって沈黙してしまった。そんなことを言われるなんて思ってもみなかったからだ。

「君が嫌じゃなければですけど」

 困ったような笑みを浮かべそう言いながら、岬は言い逃げるようにそそくさとエレベーターに乗り込んだ。
 困惑する鳴海を置いて、エレベーターは扉が閉まりかける。

「……大丈夫なんですか」

 鳴海がその扉を抉じ開けるようにして手で押し開ける。岬はそれに驚いて後ずさったが、小さく深呼吸をして自分にも言い聞かせるように「大丈夫」と答えた。
 不安はあったが、岬とはできるだけ距離を取るようにして、鳴海はカートと共にエレベーターへと乗り込んだ。
 相手が緊張しているのがわかる。
 エレベーターが上がって行く中、鳴海はあの日の事や夢のことを思い出していた。相手をやたらと意識しているようで、その事がやましく思えてなんだか居心地が悪い。

「いつも1人で乗ってるんですよね?」

 これ以上何も思い出したくなくて、沈黙を破るように鳴海が話しかける。

「基本的には。社長と一緒の時もあります」

 叔父さんとは乗れるのか……。
 その事が何故か心に引っかかり、鳴海の機嫌が斜めになりかける。

「気分悪くなったら直ぐ言ってくださいね、俺降りますから」

「うん。たぶん大丈夫……な気がします。気を遣わせてすみません」

 気を遣ったようで、実は当てつけのように口から出た言葉だった。
 何言ってんだ俺……。
 鳴海は自分が嫌になった。そんなことを言いたかったわけではない。一緒にエレベーターに乗らないかと言われて、素直に嬉しかった。岬が自分に気を許してくれているような気がして嬉しい。けれど、それが自分だけではないことにがっかりしている自分がいる。
 何でがっかり?
 疑問に思ったものの、取り繕うように会話を続ける。

「リハビリみたいなものですか?」

「そうかもしれないですね。君なら大丈夫な気がして」

 鳴海はまた言葉を失った。高鳴る心音が煩い。自分の顔が一瞬で熱を帯びていくのが解った。それを隠すように片手で顔を覆い俯いた。
 俺なら大丈夫……? それって何か……。
 優越感のようなものに、心が躍らされている。

「すみません変なことを言って。こんなこと言われたら気持ち悪いですよね」

 その様子を見た岬が慌てて言う。鳴海がとっさに顔を上げると、悲しげに笑う岬が目に入る。
 岬のこんな顔を何度も見てきた。鳴海はその度に何だか無性に揺さぶりをかけたくなる。いつも何かに耐えて、何かに怯えている。自分の一挙一動が、大きな影響を与える。
 目が離せなくなる。
 昔から、この感情の先にあるものがコントロールできなくなることが恐かった。
 そんなことを考えていることを、誰にも知られたくない。そう思った時から、鳴海の表情は硬く、変化することを拒むようになった。
 心の中に潜む感情を押し殺すように。

「気持ち悪くないです。嬉しいです」

 気持ち悪いのは俺の方だ。
 鳴海はそう思いながら、少し嬉しそうに見える岬の表情を見逃さなかった。あの1件以来、多少なりとも信用を得ているようで、いつも緊張を張りつめているような岬に隙が見える。

「なので、俺と友達になってください」

 そこに付け込むようにそう言っていた。何を言ってるんだろうと思った時には、もう口をついて出てしまっていた。
 エレベーターが動きが止まり、扉が開く。最上階へと到着した。2人が下りる階だ。
 岬は驚いた顔を見せたが、最終的には笑い出した。

「変わった人だなぁ、君は。じゃあ、これからは友達ってことで。よろしくお願いします」

 2人の関係は、知り合いから友達へと昇格した。



>>03


 今日は朝からバイトだった。大学が長期休暇に突入したため、今までよりバイトに入る時間が増えている。岬に会う日数もいままでよりより多い。友達へと昇格したわけではあるが、これと言って特に変わり映えのない今まで通りが繰り返されている。
 あの時湧き上がってきた感情に蓋をして、元通りの自分を振る舞っている。
 バイトの時間まではまだ時間がある。鳴海はいつもより30分も早く会社に到着していた。

「あれ? 何でお前がこんなところにいるんだよ?」

 鳴海にそんなことを言い放っているのは従兄の和泉(イズミ)だった。鳴海にこのバイト要請した張本人である。鳴海は昨日の夕方頃和泉の部下から直接言伝を聞いて今ここに居るのだが、到着時その呼び出した本人はまだ出社していなかった。待たされた挙句に、ドアを開けるなり鳴海の顔を見てあんなことを言った和泉を昔と変わってないなと思った。
 この男、朝が超絶苦手なのだ。

「何でって、あんたが呼んだからだよ」

「そうだっけ?」

「はい。話があるから朝オレの所へ来いと」

「……そんな気もする」

 ドカッと椅子に座りながら、和泉が言う。片足しか穿いていなかった靴下のもう一方を穿きはじめた。辛うじて寝癖はついていないが、首にはまだ絞められていないネクタイが掛かっていた。大きな欠伸をしながら、寝起きだと言わんばかりだ。今はこんなだが、数時間後には仕事のできる人間に変身するから不思議だ。

「……相変らず午前中は脳細胞が全く機能していないんですね」

 鳴海の憎まれ口は聞き流され、和泉のダメージにはならない。

「で、用件は?」

 面倒くさいのを我慢しながら、和泉の前に仁王立ちで2度目の欠伸を蹴散らすように鳴海が言った。

「……相変わらず可愛くないな。そんなんじゃ周りに敵ばっか作るぞ。どんなこともしれっとこなすもんだから、余計可愛げがないんだよ。反感買ってないか?」

 和泉はデスクに用意されていたコーヒーを一口飲むと言った。  これでも鳴海がうまく仕事をやっているのか、人間関係はうまくいっているのか心配している。和泉自身は昔から鳴海のことを知っている為どうってことないが、初対面の人間にあまり良い印象を与えることがない鳴海のことを気にかけてきた。つき合ってみれば悪い奴ではないのは解るが、態々そんな猶予期間を与えてくれる人はそんなに存在するものでもない。
 今のところ特にクレームが出ているわけでもないが、社長の親族だからという理由で表に出てこないだけということもある。一応鳴海の面倒を見ている社員にも話を聞いてはいるが、本人の様子を窺うための呼び出しだった。

「ただのバイトに反感って、どれだけ低能なの」

「お前なぁ……」

「冗談ですよ。子どもじゃないんだから、こんな風に口に出したりしない」

 口に出してはいないがそう思っているのかと思うと、それ自体が問題な気がして和泉の顔がひきつった。
 愛想はないが、誰彼かまわず(正直な気持ちではあるのかもしれないが)辛辣なことを口にしないことも知っている。鳴海がこんな風に話すのは気を許している相手にだけだ。

「岬が随分世話になったらしいな。ありがとう」

 親しげに岬のことを話す和泉を睨みつけながら、鳴海が言い返す。

「……あんたに礼を言われる筋合いないんだけど」

「まぁ、そう言うなよ。あいつオレの大学時代からの友達なんだよ。お前のことヒーローみたいに話してたぞ。でも、意外だな。お前が誰かを助けるとか。正直、見捨てそうだからさ」

 そう言って和泉は笑った。
 和泉は冗談ぽく言ってはいるが、事実見捨てることの方が圧倒的に多い。あの場に自分以外の誰かが居て、その誰かが岬を助けようとしていたら、自分は傍観していただけかもしれないと思った。
 そんなことよりも、岬に普通に友人がいることに何故か驚いている自分がいた。人とは違うからという理由で、友人は少なそうだと思っていた。いたとしても、そんなに親しい人はいないんじゃないかと勝手に思い込んでいた。知らなかっただけで、自分よりもずっと親しい友人がいる。鳴海はそれが面白くないと感じた。
 何で面白くない?
 何で……。
 そんなこと考えなければよかったと思った時には既に遅い。その時、鳴海は自分ばかりが相手を特別に感じていたことに気が付いてしまった。

「どうなるかと思ったけど、お前がバイト引き受けてくれて助かったよ。この調子でがんばってくれ。あと、岬のこともよろしくな」

 和泉が軽い気持ちでそんなことを言っているのは解っているはずなのだが、鳴海はイラついていた。よろしくと頼める間柄まで、自分はなってはいない。そんなことでイラつく自分も不甲斐なく、嫌になる。

「話はそれだけ? だったらもう行くけど」

「ああ、わざわざ呼び出して悪かった」

 部屋を出て1階へと向かう。逃げ出してきたようなものだ。
『俺と友達になってください』。あんなことを言うつもりはなかった。言うんじゃなかった。
 溜息をつきながら、急激に心が重たくなる。後悔は先に立たない。
 すれ違う人たちとあいさつを交わしながら、いつもの仏頂面で廊下を歩く。エレベーター前まで到着したところでまた溜息が漏れる。
 殆どの人間は上階の自分の部署へと向かうため、到着した下りのエレベーターには誰も乗っていなかった。1階に到着すると入れ替わりで人が乗り込んでくる。

「これ、あなたのですよね? 僕エレベーターに乗りたいので速く受け取ってもらえますか?」

 すれ違いざまに耳に入り込んできた言葉に、鳴海は胸騒ぎがして思わず振り向いた。そこには社員証を差し出している男と岬の姿があった。
 男は到着したエレベーターを振返りながら、焦っている。岬は硬直したようにじっと社員証を見つめている。
 いつもはもう少し遅い時間に来るはずなのに。
 そう思いながら、鳴海は1度はすり抜けた人ごみを戻って行く。男は岬が何故差し出された自分の社員証を受け取らないのかきっとわかっていない。そう考えたからだ。

「はいっ! 渡しましたからね」

 朝は皆慌ただしい。一向に受け取ろうとしない岬にイラつくように、男は岬の腕を掴んで社員証を手に持たせようとしていた。その手を思いっきり振り払い、岬は後退りする。人にぶつかりよろめいてその場にしゃがみ込んだ。

「何なんだよ。僕はただ拾ってあげた社員証を返しただけだぞ。わけわかんないな」

 男は吐き捨てるようにそう言って、岬の社員証を投げつけてエレベーターへ飛び乗った。
 確かに彼は良かれと思って落し物を持ち主に返してあげただけだ。けれど、岬は落としたものを、誰かが触れたものを受け取れなかった。

「すみません、通してください」

 足早に人をかき分けて、床に落ちた岬の社員証を拾い上げる。

「大丈夫ですか?」

 大抵の人は足早に通り過ぎていく。そんな中、鳴海より先に声をかける人がいた。

「岬さん」

 触るな。
 そう思った瞬間、咄嗟に名前を呼んでいた。岬の肩に触れようとする直前で鳴海がそう呼びかけた為に、その人の手は岬に触れることはなかった。
 鳴海の声に岬が青白い顔を上げた。視線がぶつかる。縋る様なその目に、自分が写っているのが解る。

「すみません。大丈夫です」

 鳴海の言葉に、心配して話しかけてくれたのだろう人物はその場を去って行く。

「立てますか? 人にぶつからない場所に行きましょう」

 岬は頷くと立ち上がった。それを見計らって鳴海は頭を下げながら人をかき分け、人の少ない方へと誘導していく。顔見知り数人とすれ違いながら挨拶を交わす。そんな場所で何をしてるんだという視線をよそに、人混みから離脱した壁際で岬の隣に立っていた。

「今日は早いんですね。何かあるんですか?」

 鳴海は岬の気分を紛らわそうと他愛もない話をふる。

「……会議の時間が早かったのでもっと早く家を出なくちゃいけなかったんですけど、いつもと同じ時間に起きてしまって……」

 岬はそう言いながら腕時計に視線を向け、慌てたようにコートのポケットから携帯を取り出した。少し遅れる旨を伝え、謝罪する。さっきまで鳴海がしていたような溜息を岬も付いていた。
「社員証のネックストラップ、事情話して新しいの後で届けますよ」

「そんな、悪いよ」

 鳴海の申し出に慌てたように岬が言い返す。

「どうせそっち行くので、ついでです。ちゃんと触れないようにして持っていくので。会議あるから急いでるでしょ? でも、貰いに行ってたら遅くなる。きっと俺が持って行った方が効率がいい」

 鳴海はあまり岬の方を見ないようにして話していた。腕を組みながら、視線は何処ともなく遠くを見ている。
 岬がたっている側の体半分が、緊張しているように思えた。自分が妙に意識しているのを相手に知られないようにしていた。

「……ごめん」

 呟くように岬が言う。どんな顔でそう言ったのか、鳴海は見てはいないが想像できた。

「謝る必要ないですよ。俺が勝手にやってるんです」

 そうだ。あいつに頼まれたからやってるんじゃない。
 和泉に言われた言葉を思い出してまたさっきの苛立ちが舞い戻ってくる。

「2度も助けられちゃいました」

 岬はそう言いながら困ったように笑った。

「……そうですね、今度お礼に何かおごってくださいよ。ああでも、店で食事とかって無理ですか?」

 言いながら社員証を持っている右手に力が入る。
 困らせる為に言っただけで、これはただの八つ当たりだ。それでも口を突いて出てしまった。また、考えるより感情が先走っている。

「あの……うん。しばらくしてないけど、大丈夫だと思う。今度ごちそうしますね」

「……前には誰と行ったんですか? やっぱり会社の人ですか?」

 聞かない方がいい。そう思うのに止まらない。
 嫌な予感がしていた。岬の口から聞きたくない名前が出てくる気がする。それなのに聞かずにいられなかった。

「うん。親戚だから知ってると思うけど、人事部の松嶋と。彼とは長い付き合いで」

 予想通りの答えに、どす黒い気持ちが心を支配していく。

「じゃあ、今度からは松嶋サンに助けてもらったらどうですか?」

「え?」

 早口でそんなことを言う鳴海に、岬は戸惑った様子で視線を向ける。その視線を通り越し、鳴海はエレベーターの方を見ていた。
 こんな会話をしているうちに、岬がいつもエレベーターに乗り込む時間帯になっていた。人通りは急激に減っていく。

「そろそろエレベーター、大丈夫じゃないですか? 俺も行きます」

 岬の方を見ることく、鳴海は言った。岬を助けに向かった時とは打って変わって、今度は逃げるようにしてその場を去って行く。
 今日は逃げ回ってばかりだ。
 取り残された岬は何か言いたげだったが、何も言葉にできないままエレベーターへと向かった。



>>04


 意識している。
 同じ建物内に居るだろうあの人の声を、姿を探している。
 何時頃にあそこに行けば、あの人に会えるかもしれない。
 何を考えていても、そんなことが頭をよぎる。鳴海はその状況に正直参っていた。そのうち仕事で何かミスをしそうで落ち着かない。
 出来れば他のことを考えたが、どうしたって岬のことが付いて回る。
 最初のうちはあんなことを言ってしまったことを後悔したが、これで良かったんだと思うようになった。
 これじゃまるで嫉妬しているみたいだ。
 誰がどう見ても、鳴海本人もその解釈は正しいように思える。だがしかし、鳴海はそれをどうにかして否定したかった。同時に堰を切るように湧き上がるすべてに蓋をして、どうにかなかったことにしたかった。
 鍵をかけて押仕込めてきたものが、扉の向こうで暴れている。
 何故か、その鍵を岬が持っているように思える。
 できるだけ会わないようにするようになって、逆に会いたい気持ちは肥大している。挨拶以外の言葉を交わさなくなって、エレベーターに一緒に乗ることが無くなって、視線を合わせないようになって、2週間近くなるだろうか。岬は鳴海のこの行動に戸惑ったまま、一歩引いて流されていた。
 秘書課のドアをノックして中に入ると、そこには岬しかいなかった。デスクに座り受話器を手にしている。
 室内に2人きりだということが、緊張感と気まずさを生む。

「おはようございます、社長。あと5分程でお迎えに上がりますがご準備はよろしいでしょうか?」

 鳴海は軽く会釈をし、いつも通り郵便物を指定の場所へと置いた。受け取りのサインを貰うため、用紙の挟まったバインダーを岬の前へと差し出す。岬も電話で会話を続けながら会釈を返し、そのまま鳴海の様子を窺っていた。差し出されたバインダーを受け取り、自分のボールペンを使いサインをする。
 自然と視線は手元へといく。白い手袋は、少し、血が滲んでいるように見える。

「承知しました。では、後程」

 バインダーが鳴海の手元に戻され、いつもの流れ作業を終えてそのまま部屋を出ようとした。けれど、受話器が戻されところで岬がデスクチェアから立ち上がった。

「待って」

 慌てたようにそう呼びとめて、岬は鳴海の方へと近づいた。

「急いでいるので」

 鳴海は振返ったものの、そう言って岬のことを振り切ろうとした。出口であるドアへと手を伸ばす。

「本当にそうなら言ってください。すみません。でも、ずっと避けているでしょう?」

 早口でいつもより大きな岬の声が部屋に響いた。
 岬の方からこんなことを言ってくるとは思っていなかった鳴海は、たじろいでしまった。まったく急いでいないわけではないが、多少時間に余裕はある。寧ろ、時間がないのは岬の方だ。5分後には社長室に居なければならない。

「もし私が何か君の気に障ることをしてしまったのなら、謝りたい」

 背中に向かって投げかけられた言葉に、振返ることなく鳴海は答える。

「……別に、してませんよ」

 岬は自分が何かしてしまったことが原因で、鳴海が怒っていると思っているようだった。
 鳴海は自分から友達になって欲しいと言いだしておいて、勝手に抱いた嫉妬心で、自分の都合で身勝手に岬と距離をとった事実を呑み込む。何て言ったらいいのか解らなくなった。
 鳴海は当たり障りのない言葉を吐きながらまだ逃げ道を探していた。けれどその逃げ道を塞ぐように、岬が話し出す。

「……私はできるだけ、必要最低限でしか人と関わらないようにしてきました。そうすれば、誰かを傷つけることを防げるから。最初から近づかないことが、自分ができる唯一のことだから……君が嫌ならもう近づかない」

 岬の視線は鳴海から外れ、次第に俯いていった。少し、震えている。そんな様子が、鳴海には手に取るようにわかっていた。
 錠に鍵が差し込まれる。
 こんなことを、他の誰かにも話したことがあるんだろうか? 寧ろ、こんなことを話させている自分はこの人にとってなんなんだろう? 必要最低限を超えて友人になった俺は。
 鳴海はそこで和泉の存在を思い出して、あの時の苛立ちが蘇る。誰かと同じも、誰かの方が親しいことも不愉快でたまらい。
 振返り岬の方を向くと、俯いた姿が目に入る。手袋をした手が、スーツの裾をギュッと掴んでいた。  そんな岬を抱きしめたい衝動に駆られる。そんなことをしたら拒絶されることはわかりきっている。けれど、岬がどんな反応をするのか、どんな顔をするのか、見てみたいとも思った。

「今度ご馳走してくれるって約束、まだ有効ですか?」

「えっ? はい。もちろん」

 鳴海の申し出に驚きながら岬は顔を上げた。鳴海はいつもの無表情のまま、岬のことを見つめていた。久しぶりにまともに視線がぶつかり合う。

「今日の夜、仕事終わってからは無理ですか?」

「今日……、はい。わかりました」

 鳴海の勢いに押されるように、岬は頷いた。
 鳴海は1歩踏み出して岬との距離を詰めると、岬の耳元で自分の携帯電話の番号を言った。岬はその瞬間硬直したように動けなくなっていた。

「聞こえました? 憶えらなかったならもう1度言います」

「だ、大丈夫」

 距離の近さに岬は後ずさりながら言う。香水かシャンプーの匂いかわからないが、鳴海からする微かな香りが岬の鼻をかすめた。故障したエレベーターで助けられた時と同じ匂いがする。

「仕事が終わったら連絡ください。俺の方が早く仕事あがっていると思うので、迎えに来ます。時間、大丈夫ですか?」

 鳴海が腕時計を見ながらそう言うと、岬は慌てて支度を始める。岬の顔は真っ赤になっていた。

「それじゃ」

 鳴海はそっけなくそう言うと、部屋を後にした。
 長いため息を付いて、また自分から足を踏み出してしまったことにどう折り合いをつけていいのかわからなくなっていた。
 抑えがきかない……。
 そんな自分が馬鹿に思える。それなのに、今夜岬と会えることを楽しみにしている自分がいる。番号を耳元で囁きながら、本当は唇を奪ってしまいたかった。
 気がふれているんだろうか?
 細くて柔らかそうな髪。白い肌。首元のホクロ。岬からは消毒液の匂いがした。



>>05


 鳴海と岬はあれから何度も一緒に食事に出かけた。最低週に1度は行っている。
 訪れる店は鳴海が選んだ、会社からほど近いカフェバーが多かった。ある程度清潔感のある、静かで落ち着いた店だ。鳴海の家からも割と近く、岬と出会う前から訪れていた店のひとつだった。
 岬は我慢をしているのだろうが、割とすんなり店にも入れたし、店の椅子にも座っていた。けれど料理や飲み物の注文をするものの、口を付けることができないでいた。
 ワインが注がれたグラス、注がれたボトル。使いまわされた食器、カトラリー。誰かが作った料理。すべての清潔性が信じられない。手袋をした手がグラスを持ち上げ、口元まで運ぶものの中身を飲む事はない。カトラリーを手にするが、食べ物が口に運ばれることはなかった。
 はじめからそれを見込んで少なめに注文をしていた。岬に残されたものは鳴海が飲んだり食べたりする。鳴海が無理に食べることをすすめたりすることをしなかったからか、そんな一風変わった会食会は回数を重ねる。他愛のない会話。話をするのは岬の方が多かった。  もともと飲食店は苦手だと言っていた。付き合いで入ることはあっても、食事はしないと。
 岬の話の内容はほとんどは潔癖症に関することが多い。それも自分の人とは違う行動が、一緒に居る相手である鳴海を傷付けない為なのかはさなかではないが、鳴海はその話も、どんな話も、丁寧に聞いていた。元々自分が話すよりも人の話を聞く方が得意だ。
 誰かを自分の家に入れることができないこと。誰かの家に上がるのも苦痛であること。
 外出する時は除菌タイプのウェットティッシュ、消毒液のスプレー、替えの手袋を持参している。
 初めて会った日、いつもしている手袋を汚してしまって捨てたはいいが、予備の手袋を忘れてしまって困っていたこと。
 私物に誰かが触ることが不快。誰かの私物を消毒せずに持ち歩けない。消毒していないものを素手で触れることができない。電車のつり革を持てない。飲み物の回し飲みができない。動物が触れない。
 話を聞けば聞くほど、人付き合いが、人と関わることが難しそうだなと鳴海は思った。だからといって、自分が岬のことを疎ましく思ったり面倒だと思ったりは何故だかしなかった。それらの感情を、好意が上回っている。
 これだけ話を聞いても、今他の誰よりも共有して言える時間が長いことを考慮しても、まだ足りないと思ってしまう。和泉はどれぐらい岬のことを知っているのか。2人がどんな時間を共有してきたのか。そんなことを考えてもどうにもならないが、どうしても気になってしまう。
 たとえばその手袋の下の手を、あいつは見たことがあるんだろうか?
 鳴海の見たことのない、岬の一部分だ。

「寒いですね」

 手袋をしている手を擦り合わせながら、目の前の岬が呟く。マスクをしているせいで、岬の声は余計小さく聞こえた。帰宅時間帯ということもあって人通りは多い。目の前の交差点の信号が青が青に変わり、2人は歩き出す。

「予報では今日はこの後雪が降るとか」

 岬の手元を見ながら鳴海が答える。吐く息は真っ白で、風が吹くと耳がピリピリと痛んだ。
 会社からの帰り道、3日振りにいつもの店に徒歩で向かっていた。店までは10分程度かかる。

「らしいですね。積もるかな」

「そこまでは降らないみたいですけど、冷えますね」

 鳴海は岬が雨も雪も苦手だと言っていたことを思いだしていた。本当はもう家に帰りたいと思っていたりするかもしれないなと思った。けれど、帰って欲しくない。本業である大学での関係で、しばらくバイトを休むことになっている。岬と会うのも当分先になるということだ。
 駅を通り過ぎ、数分も歩くと人影もまばらになる。裏通りに入ると、ほとんど人もいない。

「その手袋してても寒いですか?」

 鳴海がそう質問すると、さっきまで真っ直ぐに道の先を見ていた岬が隣の鳴海の方を向いた。

「多少は暖かいですよ。でも、防寒用のものじゃないから、素手よりはマシな程度かな」

 そう言って今度は白い手袋へと視線を落としながら、困ったような笑みを浮かべる。

「温めましょうか?」

「……え?」

 鳴海の言葉に、驚いた様子で岬が足を止める。鳴海も同様に立ち止まった。
 鳴海はたまに試すようなことをしてしまう。自分がどれだけ相手に心を許されているのかを測るように。別に強要はしない。相手の反応を見るだけだ。

「俺、体温高いんですよ。握手してみます?」

 こういう時に限って、有無を言わせないような笑顔を作る。右手を差し出しながら、岬がその手を取るのを待っている。

「あの……」

 一気に岬の心は乱される。言ってることが冗談ではないことを覚って、その笑顔に何も言えなくなる。恐る恐る鳴海の右手へと手を伸ばす。震える手が触れると、鳴海はゆっくりと包み込むように握った。

「……ほんとだ、あったかい」

 そう言って、岬はまた微笑んだ。
 この手に、和泉は触れたことがあるんだろうか? 和泉が手を差し出しても、同じように手を握るんだろうか。そう思い出すと止まらなくなる。
 鳴海は握っていた手にもう片方の手を添えて、言った。

「素手の方が良くわかると思うんですけど、流石に無理ですよね」

 そう言った瞬間、岬の目が大きく見開かれる。委ねられていた手も、逃げるように岬の方へと引き抜かれた。岬が動揺しているのが手に取るようにわかる。思った通りの反応が返ってきた。
 でも怒ってはいない。悲しんでもいない。
 ダメだと思えば思うほど、追い詰めたくなる。
 何を言っているんだろうと思いながら、頭の隅で計算している。許容範囲のギリギリのラインを探している。

「大丈夫、解ってますから。こんなことで傷ついたりしない」

 そう言って、鳴海は視線を外す。
 その言葉を聞いて、そんな鳴海を見て、岬はどう思うか。どんな反応が返ってくるのか。
 洗ってもいない、消毒もされていない他人の手を握るなんて岬には無理だ。そんなことは知っている。それを敢えて突き付けて、入り込む隙間を抉じ開けるように揺さぶっている。
 目的の店はすでに視界に入っていた。その店の方を見ながら鳴海が言った。

「店に入りましょう。冷えきってしまいます」

 その言葉に岬の身体がビク付き、狼狽しきった表情で鳴海を見た。
 それを無視するように鳴海が店の方へと数歩歩き出したところで、背後から岬が縋るように言った。

「ま、待って」

 鳴海は少し前にもこんなことあったなと思った。岬は待っているのが苦手らしい。それは次があるとは考えないからだ。自分が原因であると考える、あまりに多くの終わりを経験しすぎてしまった。だから、次があるなんて思えない。去るものを追うと、更に傷口は悪化する。そう、相場は決まっているらしい。
 そんな岬の考え方を利用して、鳴海は後戻りできないよう背後に崖を作る。自分の方へと進んでくるように。

「はい」

 鳴海が振り返ると、右手の手袋を外した岬が手を伸ばしていた。

「握手、してください」

 俯きながらギュッと目を閉じて、絞り出すようにそう言った。手はさっきより震えている。明らかに無理をしているのがわかる。

「そんなにムキにならなくても」

「……今できないと、この先もできないような気がするんです。何でだろう……君となら、できるんじゃないかって思って」

 自分の一挙一動で、岬がグラグラと揺れるのがたまらない。
 必死にそう言っている岬の姿を見ながら、心のどこかで喜んでいる。そんなことに気付きたくないのに、隠していたはずの黒いドロドロとした感情が流れ出す。
 一体自分は今どんな顔をしているんだろう?
 鳴海は岬の目の前まで戻り言った。

「手、握りますよ? いいんですか?」

 岬は覚悟を決めたように首を縦に2回も振った。ごくりと生唾を飲む喉元が視界に入った。言葉とは裏腹に、身体は思いっきり拒絶している。
 手は酷く荒れていて、ひび割れて、所々切れたように血が滲んでいるように見える。
 その手をそっと取って、手の甲に口づけをした。
 岬の身体が強張るのがわかる。呼吸も浅い。目には涙を浮かべている。

「気持ち悪いですか?」

 岬は口元をぎゅっと食いしばるようにして鳴海の方を見た。

「……は、離してください」

 気持ち悪いに決まってる。
 鳴海はそれを我慢している岬が愛しいと思った。
 この手に触れられたことが嬉しい。少しでも自分は岬の特別な相手になっただろうか。
 鳴海は岬の涙を拭ってあげたがったが、それこそ有難迷惑だろうなと思った。
 これ以上踏み込んだら駄目だ。
 鳴海は岬の手を離した。
 2人の横を車がすり抜けようとして、路面駐車をしていた車が邪魔で立ち往生した。道幅は狭い。イラついたドライバーがクラクションを鳴らした。

「誰-----くて、-----------思ってく-------んですけど」

 クラクションの音に完全にかき消されない程度の声で、鳴海が言った。

「……あの…っえ?」

 きちんとききとれなかった岬は困惑したまま聞き返す。

「すみません、嫌な思いさせて。店で手、洗いましょう」

 さっきとは違う言葉を返されたが、岬はその言葉に頷いた。2人はまた歩き出す。
 立ち止まってはまた歩き出し、前へ進む。

 揺さぶられているのは、どっちだ?



>>06


 鳴海はついうっかり、配達中に耳にした言葉が気になって口を出してしまった。

「……恐れ入りますがお名前頂戴できますか?」

 何て電話口で言っていたので、「お名前を伺ってもよろしいですかと言うべきで、お名前頂戴は云々はご用ですよ」と自分では丁重に、親切心からそう言った。
 アルバイトの分際で、目上の社員相手にそんなことをした鳴海のことを、相手は有難迷惑に思ったわけだった。
 同じようなことは他にもある。年下からしてみれば面倒見がよく見えるのだが、年上からは生意気だと思われがちだ。度々クレームが上がっていたらしく、和泉からいつかのように呼び出された。
 出来れば顔をあまり合わせなくないんだけど。
 そうは思っていても、呼び出しを無視することもできない。仕事終わりに和泉のいる人事部へと向かっていた。2フロア上に上がるだけだ。
 エレベーターから降りて廊下を歩いていると、思いがけず入口付近に見慣れた人の姿を発見し、嬉しくなった。が、誰かと話をしている所だった。しかもかなり親しげに見えた。
 仕事場ではあんな顔をあまり見せることはないのに。
 歩きながら嫌な予感がした。その話し相手はそうではあって欲しくはない相手であるんじゃないか。鳴海の予想は裏切られることなく、コーナーの壁に隠れて姿の見えなかった和泉の姿が目に入る。

「お、そろそろだと思った。待ってたぞ」

 先に鳴海に気付いたのは和泉の方だった。それに反応して岬が鳴海の方へと振り返った。声をかけようと口を開いた岬を遮るようにして鳴海が言う。

「仕事もしないでおしゃべりですか?」

「そんな感じだからクレームが来るんだよ。バカ」

 和泉は嫌味だろう鳴海の言葉を気にすることもなくそう言い返した。

「バカなのは俺じゃなくてクレーム言って来てる奴等の方だ」

 鳴海は和泉の方を睨みながら言う。
 和泉は呆れたようにため息を付いて、岬の方を向いた。

「ごめん、こいつと話あるからまた今度な」

「うん。また」

 和泉が岬にそう言うと、鳴海のことを気にしつつ岬はその場を後にした。岬は鳴海のことを見ていたが、2人の視線が合うことはなかった。
 和泉が自分専用の個室の方を指差し歩き出したので、鳴海は素直にその後を付いて行った。仕事をしている社員たちのデスクが並ぶ部屋を通り過ぎ、端にあるガラス張りの部屋へと入る。前に来た部屋と同じだ。

「お前な、不器用すぎ。正しいことが常に正当化されるとは限らないだろう。目上の立場の人が、公衆の面前で恥をかかされたら立場がないことぐらいわかれ。それがどんなに丁寧な物言いだったとしても、相手にとっては屈辱だ」

 室内に2人が入りドアが閉まるなり、和泉は捲し立てるように喋りはじめた。そのままデスクの方まで歩いて行き、椅子へ座る。会話の内容は聞こえていないが、いかにもお説教中な様子が周りの社員達にもガラス張りな為丸見えだった。
 そうは言っても、和泉はたいして怒っているわけでもない。説教というより、社会勉強という感覚に近い。一応クレーム処理をしている風をアピールしてはいるが、人付き合いが上手とは言い難い鳴海のことを思って話をしている。

「俺だったら間違ったままの方が恥ずかしい」

 そう言う鳴海の顔には、反省何てこれっぽちもしていないと顔に描いている。
 和泉がそんなことを考えていることなど、鳴海は気付いていない。いままでもずっとこんな感じだった。今もその延長線上になっている。
 それよりも岬が楽しそうに笑顔を見せて話をしていたことが気にくわない。

「確かに間違いに気付かないままの方が、恥ずかしいよ。でも、時と場合と相手を考えろって言ってんの。そういうのが気になる場合は、直接本人に言わないで今度からはまず俺に言え。わかったな?」

 デスクに両肘を立てて手を組みながら、頬杖をつくように顎を乗せた和泉は、弟を諭すように話した。
 少し考え込んで、鳴海は鳴海は頷いた。

「わかった」

 自分は間違っていないと思う。でも、和泉が言っていることもわかる。鳴海はそれ以上何も言い返さなかった。

「……岬も大変そうだな」

 急に岬の名前が出て鳴海は多少動揺し、何となく身構えてしまう。

「……何が?」

「お前は昔から興味のない人間は視野に入ってないぐらいなのに、いったん気に入ると途端に夢中になる」

 お見通しだといった表情で和泉が言う。
 確かに子どもの頃からそうだった。お気に入りは特別で、他とは違う。

「行き過ぎて、あんまり岬に無理させるなよ」

「言われなくても、わかってるよ。話が終わったなら行くけど」

 これ以上和泉と岬の話をしたくなくて、鳴海は早口でそう言った。

「オッケー。気を付けて帰れよ」

 和泉はそう言いながら、片手をひらひらと振った。鳴海はそそくさと部屋を出ていく。そのまま足早に人事課を通り過ぎ、エレベーターへと一直線に歩いていく。
 出入り口を出て角を曲がると、エレベーターと岬の姿が目に入った。そのまま吸い寄せられるようにエレベーターの方へと行くと、腕時計を見ていた岬が歩いてくる鳴海のことに気付いた。
「もう話しは終わったんですか?」

「……はい」

 岬は鳴海のことを待っていたようだった。特に何の約束もしていない。何故岬が自分のことを待っていたのか、鳴海は解らなかった。

「時間があったら、ちょっと、そこの会議室で話しできますか? 今は使っていないようなので」

 岬が周りを気にするようにしながら、直ぐ近くの会議室の方を見る。

「かまいませんよ」

 二つ返事で鳴海はそれを承諾して、2人は会議室へと入って行った。

「あの……」

 岬が振り返ると、ドアに寄り掛かるようにして鳴海が立っていた。言いにくいことを伝えようとしているのか、口ごもっている。

「何です?」

 鳴海は話すのを促すように、首をかしげながら尋ねる。

「さっきの和泉に対する態度は、ちょっと酷くないですか? 彼はあなたのいとこかもしれないけれど、その前にこの会社では上司です。特に人前で話をするような時は、敬語を使った方がいいんじゃないかと……」

 勢いに任せて言ってはみたものの、鳴海の顔色を窺うように、途中から声はしりすぼみになっていった。
 まさか、今日2度も説教をされるとは思っていなかった鳴海は、それでも岬の話を黙って聞いていた。逆に、岬がこんな風に言ってくれることが新鮮で、素直にうれしいと思った。

「そうですね。次からは気を付けます」

 さらっとそんな言葉が鳴海の口から出てきたことに、余計なお世話だとでも言われるんじゃないかと思い身構えていた様子の岬は、拍子抜けしているようだった。
  
「えっ……。ああ、うん。余計なことかもしれないと思ったんだけど、君と和泉のためになるんじゃないかと思って」

 いつもの困ったような笑みを浮かべ、岬が言った。
 和泉が余計だ……。
 最後の言葉が気に入らなくて、鳴海の眉間に皺が寄る。

「あなたがあいつと楽しそうに話してるものだから、ついイライラしてしまっただけです」

 正直に事実を話しただけではあるが、岬を少し困らせてやろうと思って言っている。

「それじゃまるで、やきもち焼いてるみたいですよ?」

 岬はからかうようにそう言って、ちょっと笑った。鳴海が冗談を言っているんだと思ったらしい。

「みたいじゃない。焼いてるんです」

 鳴海が真顔で言う。冗談ではないとでも言うように。

「な、何?」

 そんな鳴海の様子に、岬の笑いは消える。

「好きだって、言ったら?」

 追い打ちをかけるように鳴海が言う。
 岬は言葉の意味を飲み込めない様子で立ちすくした。

「す、すき……?」

 岬は急にこの前カフェの近くでクラクションで聞き取れなかった鳴海の言葉が、頭の中でパズルが組み合わさるように思い浮かんだ。
 『誰でもじゃなくて、俺に温めて欲しいって思てくれたら嬉しんですけど』
 あの時、鳴海はきっとそう言ったんだと思った。

「好きです。一緒に居ると触れたくなります。抱きしめたいし、キスもしたい」

 岬は自分の身体を抱きしめるようにして後ずさった。逃げようと思ったかもしれないが、出口は鳴海に塞がれている。

「……触れたいって。でも、この手に触れた時気持ち悪かったでしょう? こんなボロボロで、傷だらけの手……」

 鳴海は岬の手袋をしている手元に視線を落とした。

「気持ち悪かったらあんなことしませんよ」

 鳴海が1歩近づく。岬は麻酔がかかっているように動けなかった。

「それでもあなたの側に居ることを許してくれますか?」

 岬が震えているのがわかる。鳴海は絶妙な距離を保ったまま、岬に聞いた。
 その後タイミングよく岬の携帯電話が鳴りだした。岬は現実を取り戻したようにスーツの棟ポケットから携帯を取り出す。

「……ごめん、社長から」

 そう言って、電話に出る。呼び出しの電話だった。

「すみません、直ぐ行きます」

 岬がそう言っているのを聞いて、鳴海は立ち塞がるようになっていたドアの前をすんなりとどいて、ドアを開けた。

「触られるのは嫌です。でも……会えなくなるのはもっと嫌です」

 捨て台詞のようにそう言って、岬は小走りで会議室を出ていく。顔は真っ赤だった。
 いつかあの人が、自分から俺に触れることがあるだろうか。
 その手に触れた感覚を思い出して、鳴海の口元が緩む。

 刷り込んだ依存感が冒すのは、恋だ。






「触診」
<04/11/07>


恥ずかしがっている場合じゃない
その傷診せて舐めさせて
びょういん行っても治せない
探し続けてたとっこうやくも
どこにもありはしないんだよ

そのびょうき
僕じゃないと、駄目なんだから
僕じゃないと、治せないんだから

飛び火した感情に火傷しても
僕は君に触れたいのさ


(詩集「2進数」より)



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